wkpmm

わくぺめも

嫌味を言えるようになりたいけど嫌味を言いたいわけではない

打てば響くような反応速度で、嫌味を返せる人がいる。SNSでも、そういうエピソードをよく見かける。上司にネチネチ言われたから、思わずこう返しちゃったとか。馬鹿にされたからこう言ってやったとか。
うらやましい、と皮肉でなく純粋に思う。そういうチクリとした返し、してみたい。ひねりがきいていて、相手を瞬間沸騰させながらも反論の余地を与えないブラックな言葉選び。その場ですぐに思いつければ、さぞ清々しかろうと思う。いいなあ、いいなあ。自分には到底できないから、いっそううらやましい。

自分は瞬時に言葉を精製して舌に乗せることが苦手だし、そもそもの気性がおとなしいほうだから、たとえ思いついたとしても言えないと思う。なにしろ、電車のホームで割り込んできたひとの肩を叩いて「最後尾はあちらですよ」と告げるだけでも数分かかるのだ。深呼吸して脳内で何度もシミュレーションして、よし、と腹をくくる必要があるから。いざ言ったあとも、しばらくは心臓が耳元でばくばく音を立てておさまらない。そういう気質だ。こういうことを息をするように自然にやってのけられたらどんなにいいだろう、と思いながら、最後尾に並び直すその人を見送っては、ほてった顔をこっそり扇いで冷ましている。

でも、と、最近気づいた。というか、以前から感じていたことの尻尾をやっと掴んだ。自分は「嫌味を言える人間」になりたいだけであって、「嫌味を言う人間」になりたいわけじゃない。

嫌味を言えるだけの「強さ」が欲しいのだ。おまけに望むなら、嫌味を思いつくだけの「賢さ」が欲しいのだ。突っかかられても怯まず、胸を張って目を見て対峙して、言葉を返せる強さ。相手の弱みとロジックの穴を即座に把握して、相手を盛大に挑発しつつも自分の品位は失わないラインの言葉をピックアップして、小気味よく返せる賢さ。
でも、もしその強さと賢さを手に入れて、嫌味を言えるようになったら、その武器は「嫌味を言わない」ことに使いたい。逆説的というか悪魔の証明的だけど、表に出さないことこそが、強さのいちばんの証明だと思う。

嫌味を言えない人間ではなくて、選択的に嫌味を「言わない」人間になりたい。言えないから言わないのではなくて、言えるけど言わないという選択。 嫌味を言えるようになって初めて「言わない」ことを選ぶことができる。嫌味を言えないままではそれができない。悔しいしもどかしい。

――と歯噛みしながらも、そんな自分を見下ろすもうひとりの自分はこうも考えている。「でもまあ、嫌味をやたらとまき散らして周囲を不快にさせてる人よりは、今の自分のほうがマシかもしれない」。
負け惜しみや自己防衛だと言われればそれまでだけど、この気持ちもまた事実。ようするに自分は、嫌味を言える強さに憧れてはいるけれど、嫌味を言うことそのものを美徳だとはどうしても思えない。ややこしい。

望むとおりの強さと賢さをじっさいに手に入れれば、このややこしくも面倒くさい気持ちも落ち着くんだろうか。