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わくぺめも

DTC -湯けむり純情編- from HiGH&LOW 舞台挨拶メモ

  • 2018年9月29日(土)09:20開始の回
  • 登壇者: 山下健二郎、佐藤寛太、佐藤大樹、八木将康、天野浩成、笛木優子、新井美羽、西川俊介、廣瀬智紀、西村一輝、水野勝、田中俊介、守屋光治、井澤勇貴、立木文彦、平沼紀久(冒頭の挨拶順、敬称略)
  • 手書きのメモをもとに書いているので、細かい語尾などは雰囲気です
  • 致命的なネタバレは含まないと思いますが、上映後の舞台挨拶なので保障はできません
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怖い夢

朝。夢の中で、起きた。シャワーを浴びようと思って、まずは玄関に向かった。防犯のため、シャワーを浴びる前には玄関の鍵がかかっているかを確認する、と決めているから。このへんは現実に朝起きてからとる行動とまったく同じなので、まだ夢だと気づいていない。

玄関に行って、ドアノブのあたりを見たら、鍵が開いていた。施錠しようと思ってなんの気なしに手を伸ばした、ら、その瞬間ドアの向こうから貫通するように手が伸びてきて両手を掴まれた。乱暴な感じでも何か音がするわけでもなく、まるではじめから誰かがそこで静かに待っていたみたいだった。

夢の中では、とっさに「覗き穴を通って手が伸びてきた」んだと思った。もちろんそんなん起きるわけがない。覗き穴とは全然違う位置だし、片手ずつ別々に、2ヶ所からぬっと手が伸びてきたし、そもそも小さな覗き穴から手は出せない(『目は4つもない』のコピペみたいだ)。今思うとわけがわからない状況だけどそれでも違和感はなくて、夢だとは気づかなかった。脳の補正力ってすごい。

とはいえ、夢だと気づいてなくても(気づいてないからこそ)まともに思考が働かないくらい怖かった。握られた手の生暖かさがはっきりわかって、無機物ではなく明らかに人のものなんだと思い知らされる肌の柔らかさも伝わってきて、気持ち悪くて怖くて怖くて、叫ぼうとしたけど声が出なかった。喉が締まったようになって息が苦しい。しかもそこで思い出してしまった、ドアの鍵は開いている。ドアの向こうにいる人(ヒトじゃないかもしれない)にぱっと手を離してドアを開けられてしまったら、と思うと安直に振り払うこともできなくて、両手を生暖かく脈打つ手に掴まれたまま、とにかく混乱してやばいやばいやばいやばいって考えていたら目が覚めた。

どうやら、うつぶせに寝ていたらしかった。両手を重ねて、それを枕にするようにして二度寝していたっぽい。そのせいでこんな夢を見たんだと分かって、一気に肩の力が抜けた。じっさいに玄関に行ってみたら、鍵はちゃんとかかっていた。よかった。

という夢を見たんだ

この文章、長いこと下書きに保存されっぱなしになっていて、最終更新日を見たら『2018/3/30 15:06:18』とのことだった。2ヶ月も前となるとこんな夢を見たこと自体完全に記憶から消えていたけど、読み返していたらあの手の感触や自分の焦りをはっきり思い出せた。夢を書き留めておくのも結構面白いもんだなあとうんうんうなずきながら今この部分を追記してる。けどお風呂に入る前に読んだのは失策だったかもしれないな。

脳みそポヨポヨになりたいならこれ!『カンフー・ヨガ』

観ている間ずっと頭の上に「?」が500個くらいポヨポヨ浮かんでたので、後ろの列に座る人には邪魔だったかも。ってくらいヤバい映画だった。エンドロールをぼんやり眺めながら「自分は……自分は今なにを目撃したんだ……? 何を観たんだ……何だったんだこれ……」ってひたすら自問した。ジャッキー映画ってみんなこういう感じ(こういう感じ)なんですか? それとも今作がずば抜けてヤバかったんですか? それを確認する意味でも今すごく過去作を観てみたくなってる。

全編通して「こまけぇこたぁいいんだよ」のパワーが満ちあふれてた。HiGH&LOW程度(とあえて言う)で「設定ガバガバだからな〜」とかナメたことぬかしててまじですみませんでした、とどこへともなく謝りたくなったほど。ハイローなんて可愛いもんだ。

最近、映画を観たらすぐ手帳に感想をメモするようにしてるんだけど、『カンフー・ヨガ』のページにはこう書いてある。

ライオンとダンスしか頭に残ってねえ……

そう、「ライオン」と「ダンス」しか頭に残ってないのだ。鑑賞してすぐメモったのにこのありさまなのだ。ライオン可愛かったなあ。コミカル全振りみたいなポジショニングが最高だった。スリリングな要素の一つとして猛獣は鉄板だけど、カンフー・ヨガのライオンは「そうきたか!」という感じで、客席のあちこちからフフッと笑いが漏れていた。

笑えるとはいえ、カーチェイスは文句なしに超絶すごかった。合間あいまにライオンちゃんの「がおーん!」とジャッキーの「ウワーッ!」が差し込まれるので総合的には軽い口当たりなんだけど、とにかく車がドッカンドッカン吹っ飛んでて景気がよろしい。お金のかかってるカーチェイスは最高。あとインド人のスーパーヒーロー着地おもしろすぎた。そんなんありかよ!(CV: 高橋一生)

どのシーンどのカットを思い出しても「で結局なんだったのあれ」ってなるの面白すぎる

冒頭のインド版戦国無双なんだったのあれ。財宝が氷の下に眠ることとなったいきさつを描くにしてももうちょっと軽めのなんかこう、あったやろ他に。なんで前菜に家系ラーメン出してくるんだよ。長尺だしCGに気合い入りすぎてるし、途中で「このまま2時間突っ走る気か?」って不安になったし(それはそれで超観たい)。

タイトルであるところの『カンフー・ヨガ』というフレーズすら、鑑賞後には「いや結局なんだったんだこれ」ってポスターにツッコむしかなくなるのがすごい。カンフー定食のハーフとヨガ定食のハーフがセットになってるのかと思って食堂に行ったら、マジックペンで「ヨガ」って書かれたすりごま容器がちょこんと置かれてるだけのカンフー定食が出てきたみたいなもんだったでしょ。ほぼほぼカンフーやんけ。しかもヨガよりはるかにでかいインドダンスがデザートについてきたせいで胃がびっくりしてしゃっくり止まんない。ヨガってなんなんだ。カンフー・ヨガってなんなんだ。クルーに一人くらい「これタイトル『カンフー・インドダンス』のほうがよくない?」って言う人おらんかったんか。衝撃的すぎて喩えもままならなくてなんか腹立ってきた。いけないいけない、こんなときこそ深呼吸……ヨガの呼吸法が役に立つのよ……。

円盤化・配信されたらまた観るわ

腹は立つけど絶対もっかい観たい。こんなに全力で振り切ってる映画が現代に存在していていいんだ、という衝撃。世界中の誰が観てもニコニコさせられる楽しさ。お茶目で機転がきいてモテモテで強くて最高にチャーミングな「ジャック」という存在の強さ。本当、ジャッキー・チェンってすごいんだなあ。

そしてジャックの助手の男子(カワイイ系)と甥っ子(カッコイイ系)、どっちもそれぞれ魅力的で印象に残った。助手くんはインドダンスのキレがひとりずば抜けてたのでアイドルなんだろうな〜と思ったら合ってたっぽいので、所属グループにちょっと興味がわいてきてる。こういう出会いも面白いので、これからも色んな映画に触れていきたいな。

  • 鑑賞日: 2018/01/21

これが文化部のエクストリームスポーツだ

メモ帳をほぼ使い切ったので、同じものを新しく買った。

手のひらサイズの「あの」原稿用紙。名刺よりも一回り大きいくらい。セブンで買える。

ぺりぺりと切り離せるので、主に郵送物に添える一筆箋として使ってた。時候の挨拶も要らないような「お元気ですか。約束してたもの贈ります。またね」くらいのメッセージにぴったり(もちろんマス目は盛大に無視して書く)。あとは、ちょっとしたお礼でアルフォートとか買って渡すときに添えたりとか。直近だと、twitterの #いいねした人に手書きでなんか書く みたいなハッシュタグに乗っかったときにも消費した。

このメモ、とにかく受けがよい。なぜなら、だいたいみんなこの原稿用紙に見覚えがあるからだ。夏休みの宿題とか、「工場見学の思い出」みたいな作文とか、一瞬でフラッシュバックしたそれらのノスタルジーが「うわ懐かし!」という言葉になって出力される。それを「そうじゃろうそうじゃろう」と仙人みたいな顔で眺めるのが楽しい。

オマージュとかではなく、ほんまもんのコクヨとのコラボなので、細部までしっかりそのまんま。紙もたぶん一緒なんじゃなかろうか、薄くてちょっとだけかさついているこの感じ。そう、一般的なびんせんやふせんより断然薄いので、何枚か切り離して手帳に挟んでおくと急なお礼や手土産などの諸々に対応できて「そういうとこちゃんとしてる人」って感じになれる。なりたい。

ただしこれ、公式サイトによると中国・四国・九州のみの販売らしい。ほかの地区では、ふせんバージョンが売られてるみたい。ちょっとしたものに添えるなら、こちらのほうがのりやテープ要らずで便利そう。

ジャポニカ学習帳型のミニノートもあるらしい……九州ではキャンパスノート型だ。


自分がコクヨの原稿用紙を見て真っ先に思い出すのは、中学生のときに通っていた塾の自習室。夏休みの折り返し地点、登校日が提出期限になっていた読書感想文が書き終わらなくて、当日の夜に慌てて原稿用紙を埋めている自分がそこにいる。登校日『当日の夜』であって『前日の夜』ではない。つまり既に間に合ってない。間に合ってないんだけど、「日付が変わるまでが登校日やろがい」の精神で追い込みをかけているのだった。「追い込み」というよりは「追い込まれ」というか、追いすがるというか。

登校日当日、全校集会や部活が終わったあと家に帰る間も惜しくて、通学路にある塾に立ち寄って感想文を書き上げて、また学校に戻り、職員室にスッと忍び込んで先生の机にフワッと原稿用紙を乗せ、ダッシュで家に帰る、というエクストリームスポーツに挑んだわけで、今思い出しても「何やってんの」と言うほかない。もちろん当時母にもまったく同じ言葉をかけられてるので安心してほしい。

アホ極まりない流れで提出された読書感想文だけど、内容としてはそこそこいい線いっていたようで、なにかの賞に選ばれた気がする。そのとき自分は先生の顔を思い浮かべて「提出が遅れた作文にも賞に応募する権利をくれたんだなあ、個別のものごとを切り離して考えるすごい大人だなあ」というようなことを考えていた。どのツラ下げてお前。

なにかの賞に選ばれた気がする

もらった賞がなんだったのか忘れているのは、それが満足いくものではなかったから。地区の銀賞か特別賞か……とにかくトップの賞ではなかったと思う。とはいえ、「まあそんなもんだろうな」という感じで、満足ではないものの納得感はあった。それはそれは追い込まれた状況で書き上げたので、最後の締めが平凡になってしまったという自覚があったのだ。出だしは割と目を引く感じで独自性が出てたんだけど、なんかありきたりなまとめになっちゃったな、もうちょっと練ってればもう一つ上の賞が獲れてたのかもしれない。あーあ、やっぱりギリギリにやるのははだめだな。ギリギリにやるのはだめ。

書いてて若干胃が痛くなってきた。そう、ギリギリにやるのはだめなのだ。2018年の目標は全日本ギリギリマン協会から名誉の除名処分を受けることです。がんばります。

褒められとノー褒められの分岐

会社の朝礼では、交代で社員ひとりがスピーチをすることになっている。こないだ会社の人たちと雑談していたとき、ひとりが「わくさんは朝礼のスピーチがいつも面白いですよね」と言ってくれた。他の人たちも「あ、それいつも思ってた」「面白い」とノッてくれた。「わくさんが話してた豆知識、朝礼終わってすぐにうちのチームの人が試してましたよ」とか。

前の会社にも同じように当番制のスピーチがあったんだけど、自分がスピーチ当番をつとめる回の朝礼前には、偉い人からよく「いい? 適当でいいんだからね?」「長々喋らなくていいからね」と言われていた。その口調や表情などなどから考えると、なんというか、自分のスピーチがよく思われていないのは明らかだった。

今の会社でスピーチを褒められるたび、前の会社でかけられていたそれらの言葉を思い出す。同じようなスピーチをしていても、受け止められ方がこんなに変わるのか。こういうところで転職の影響力を実感するとは予想してなかった。

書き添えておくと、前の会社の人たちが性格悪いとかではない。前職は結構な激務がデフォルトで、自分も含め社員全員が常に疲れていた。『社員全員が常に疲れていた』って文字にするとあらためてやばいなと戦慄するけど、本当にタフな環境だったのだ。だから、起立して聴かなければならないスピーチに面白さなんて求めていられなくて、「なんでもいいから早く終わってほしい」と思わざるをえなくなっていたんだと思う。それでも自分は面白さを求めたくて、長えよって顔をされながらつらつらと喋っていたわけだけど。とはいえ心の底には、「スピーチを通して自分の人となりを知ってほしい」という気持ちもあったから、エゴっちゃエゴだったんだよな。押し通すのもほどほどにしとくべきだったのかもしれない。今となってはわからない。

今は、ネタになりそうなことを思いついたらふせんに書き足して、会社のデスクに貼っておいてる。自分にとってスピーチ当番は楽しみのひとつなので、せっかくなら聴く人たちも面白がってくれればいいなと思う。そしてできれば、前の会社の人たちが少しでも元気でいてほしいなとたまに思いを馳せている。